女子アナの入り口

2003年2月17日
向井美鈴29歳。
未幸と同期入社だ。
新卒で入社した未幸とは7歳違い。
この会社では
契約社員はいちから育てる経費と時間がないため
即戦力をという方針で
だいたいアナウンス経験者を採用している。

そのなかでも、なんの経験もない
未幸が採用されたのは奇跡に等しいのだが、
酒が大好きで、
転勤などで少なくなってきた酒のみ友達を補充したいデスクの目に
これまた酒が大好きで
履歴書でも面接でも酒の話題しか出さなかった未幸がとまったという
なんとも情けないのかありがたいのか、
とにかくとてもラッキーな経緯で4月から
このテレビ局の看板ニュース番組の
キャスターという座を得たのである。

そして、向井さんほどの経験はないにしろ、
未幸には若さという何にもかえがたい武器がある。
この業界では一番とは言わないまでも
若いというだけで
たいていのことがうまく運んでいく事を誰もが知っている。
当然、未幸もそれをよく理解しているから
契約といういつクビを言い渡されても文句が言えないという
この危うい立場にも
とりたてて問題があるとは思っていないのだった。
どうせ来年は私より若い人がくる。
争いごとが嫌いな割に負けず嫌いな性格の未幸は、
2、3年でやめるくらいの諦めがないと精神が持たないと思っていた。



ムンムンな同僚

2003年2月16日
「未幸ちゃあん、おはよう」
熱いお茶をふうふうしながらのんでいると
背後から涼しい声がした。

金は持っているがどうにも使いようがない職員が
昨晩同伴出勤した夜のおね−さんが
まだ酔っ払っているその職員と一緒に
会社にまで同伴出勤してきたのかと思った。

高い香水なのだろうけど
こうまで殺人的に強いと
異臭としか言いようがない。

今昼間だよなと確認してしまうほど
夜の雰囲気たっぷりの女性。
ムンムン向井さんの登場だ。

ふんわりブローした髪に
買うつもりはなくても
どこで買ったのか聞きたくなるほど強烈な
真っ赤なスーツに真っ赤なパンプス。
化粧もばっちり。地肌が見えない。

「あ、向井さん、おはようございます」
今日もすごいっすね・・・と心の中で言う。
朝の習慣。


いつもの朝

2003年2月15日
会社までは歩いて五分の距離。
もともと出不精の未幸にとっては
きわめて都合がいい距離ではある。
生きる糧を仕入れるために休みの日に外に出ると
必ずといっていいほど
会社の人間に遭遇する事をのぞけば。

新谷が会社のエントランスに消えたのを確認すると
未幸はわざわざ暗証番号を入力しないと
開かない入り口から会社にはいる。
暗証番号を知ってるというのが、
この会社の一員である事を
確認させてくれるようなきがして
毎朝ちょっとした自尊心が満足する。

会社に入ると記者とカメラマン、ライトマンの
3人が慌しく出ていった。
今日は保険金殺人事件の判決が出る日だ。

8年前、女と、交際していた男が共謀して
夫と長男を殺害した。
殺人事件なんてテレビでは御馴染みで
日常茶飯事起こっているように思えるが、
県単位、市町村単位で考えると
1年に数回起こるか起こらないかのレアものだ。

会社の人間は昨日の夜から会社に詰めて
準備していたに違いない。
これが、午前10時半に悠々と出勤する
未幸との立場の違いを現している。
契約社員ということで
ときどき、気まずい思いもするのだが
今は割りきれている。
時間には余裕があるし業務量も少ない。
あさから晩まで事件だ事故だと走りまわって、
化粧もしていない同い年の女性記者を見ると
なんて恵まれているのだろうと思う。
しかし、楽をしているぶん、ボーナスはないし、
給与面、待遇における
職員との差は歴然としてきちんと損はしている。

正社員になりたいと思う
気持ちもないわけではないが、
元来怠け者の性格が幸いして
そこまでの向上心が芽生えてこない。
幸せな事だと思う。

未幸は慌しいニュース現場を背にして
無料の給茶機で
恐ろしく熱く設定されている茶を入れた。
慌しい中でここだけ
優雅な時間が流れている気がする。
朝のお茶は実にうまい。

寒くて目を覚ますと、
掛け布団一枚で
同じく寒そうに身体を縮めた男が隣に寝ている。
外は雪らしい。

未幸はバスローブを羽織ると
暖房を入れにリビングへ向かった。
化粧をしてスーツを選び、
完璧に準備をしてから男を起こす。
着替えをしているところ、化粧をしているところを見られるのが嫌いだ。
生活を男に感じられるのが何よりも恥ずかしい。

「新谷さん、遅れますよ」
新谷は寝起きのよい男で
いつも10分もあれば、
ぼさぼさの頭のまま会社に出かけられる。
もっとも、
新谷がこの部屋で目覚めるのはまだ3回目だが。

「それじゃ、お世話になりました」
「どういたしまして」
当然行ってきますのキスもない。

この男は感情がないのか。
軽い怒りを覚えながら
いつもどこにおいたかわからなくなる
カギを探し出して
新谷が家を出た五分後に家を出る。
静かな朝。
雪が降る音「しんしん」は本当に的を得た表現だ。

新谷と男と女の関係になったのは1ヶ月前。
昨晩は唇を重ねる事もしなかった。



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